金嶽山 長福寺

長福寺の山号は金嶽山、院号は観自在院、宗派は真言宗単立となっています。

古くは山上にあり、天平21年(749)に行基菩薩が観自在菩薩を造立された(金嶽山十一面観自在菩薩縁記)と伝えられています。
縁起については天正11年(1583)に田中源重郎を開基に、僧・円常を開山として、創建されたとの記録があります。

本堂内の様子です。長福寺本尊の十一面観自在菩薩が祀られています。

本堂右手には客殿が並び立っています。また境内には、主に護摩の修法を行う十一面堂もあります。

本堂裏の墓地は見晴らしがよく、寄居町内が一望できます。

金嶽山十一面観自在菩薩縁起正史

当山観自在菩薩の由来を尋ね奉るに、人王四十五代聖武天皇の御宇天平二十一年、行基菩薩は諸国を修行途上、名山名地に仏菩薩を造立されていたが、たまたま当山に行歩された折り、当山地形に深く感じ入り、この地は仏菩薩を造立すべきところであると、一夜を徹して彫刻し巌窟に安置した。
この菩薩の尊容には、秘密五眼具足の観念があった。そこで行基はこの仏像に向かって、「何とぞよく濁生の衆生を導き給え」と誓願し、麓に下る途中どこともなく一人の農夫に行きあった。行基はこの農夫に、「私は行基というものであるが、この山は誠に勝れた霊地である。今、十一面観自在菩薩を造立したてまつった。一度でも参拝した者は現世の災難を免れ、福寿を増進し、又、いろいろの願い事が成就するであろう」と語った。
農夫はこの教えに従って山に登り、行基の造立した十一面観自在菩薩を拝んだ。それ以来、夜となく昼となく大勢の人が参詣するようになったが、ある晩の丑の刻、燈りに照らされて金砂が降ってきた。このことから、この山を金嶽山と呼ぶようになったという。
その後、後奈良院の御宇天文二十三年、雷火によって堂宇焼失したが、その時菩薩は虚空に飛行し荒川渕岩屋に入られた。その時よりこのところを観音堂渕というようになった。その頃、鉢形城主北条安房守はこのことを聞いて、このような有難い仏様をそのままにしておいてはならないと、城内に小堂を立て安置し奉った。
ある夜、安房守の夢枕に白髪の老翁が立って言った、「我は金嶽山の観自在なり。早く金嶽山に帰してくれ」北条驚き即日当山に送り奉ったという。
『新編武蔵風土記稿』より

所在地

〒369-1202 埼玉県大里郡寄居町桜沢3342

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